さて、私がよく疑問に思っていたのが「確率はなぜ収束するのか」という事です。
例えば、サイコロを600回投げたとします。
サイコロには1~6の目がありますから、およそどの数字も100回ぐらいに収束します。
そして、投げる回数が増えれば増えるほど、確率は収束し、限りなく1/6へと近づいていきます。
…。
さて、これを聞くと「当たり前」「常識」と思うかもしれませんが。
なぜ収束するのでしょうか?
本当の意味で確率がランダムなのであれば。
「収束」する事自体、おかしいのではないでしょうか?
そもそも、本当の意味でランダムなのであれば。
1/6という確率を求められる、導き出せる事自体。
おかしな話なのです。
なぜなら、ランダムとは。
「事象の発生に法則性(規則性)がなく、予測が不可能な状態」
な訳ですから。
1/6という確率、法則性を我々が認知できる、結果をある程度予測できる時点で、それは真のランダムではありません。
つまり。
「確率は収束するというルールが存在している」
からこそ、確率を求められるし、収束するという事象を人間が認識する事ができるのです。
…そもそも、なぜサイコロは1~6の目しかでないと限定する事ができるのか?という事です。
真にランダムであるならば。
サイコロがサイコロとして、1~6しか出ないという状態を維持できる事自体が、起こり得ないのです。
サイコロは投げた瞬間、別のものに変わるかもしれません。
そもそも、床にきちんと落ちるのでしょうか?
それどころか、重力も自転も、あったりなかったりするかもしれません。
あるいは、そういった法則、概念自体が存在しないでしょう。
人が人の形を保つ事すらできません。
……。
何が起こるかどころか、何が起きたのかを認識する事すらできない状態。
今述べた事ですら、想像に過ぎず。
そして、想像できる時点で、それすらも「真のランダム」とは言えないのです。
…この世界は「論理的」です。
そして「論理的な世界」に住んでいる我々からは。
「真にランダムな世界」を知り得る事すらできないのです。
なぜなら、想像や推測ができるのも、あくまでこの世界の論理を前提としているから。
何をどうあがいても、この世界のルールに縛られている以上は、その外側の世界を理解する事はできないのです。
…「確率」とは「限界」がある事の証左でもあります。
「確率」という「可能性の限界」が存在する限り。
「この世界に真のランダムは存在しない」
と言えるのです。
そして、限界が存在するのであれば。
論理的なこの世界は、有限の世界と言えます。
で、あれば。
真のランダムが、この世界の外側に存在するのであれば。
それは即ち。
無限の世界という事ではないでしょうか?