さて、我々人間は何を持って「良し悪し」を判断しているのでしょう。
芸術作品を見て「良い」と評価する人もいれば「悪い」と評価する人もいますよね。
この違いが何か、考えた事はありますか?
仮説を立てて、考えてみます。
仮説①もし、人それぞれ好きなものが千差万別であるならば
さて、人それぞれ好きなものは違いますよね。
自分は好きだけど、相手はあまり好きではない、という事は現実によくある事と思います。
…しかし、です。
本当に好きなものが人それぞれ千差万別であるならば。
「有名店」や「優れた作家」などは。
存在しない事になります。
誰か絵を描いても、料理を作っても、音楽を聴いても。
その全てに等しく価値がある訳です。
上手いとか、下手とか。
そういった基準は存在しない事になります。
さて、現実はどうでしょう?
そうではありませんよね?
◎では、上手や下手だけなら?
逆に、好きや嫌いが実は存在せず、上手や下手だけしか存在しないのであれば。
…一番良いものだけが世の中に残り、それ以外は残らない、売れない、価値が無い事になります。
一番上手い人の絵だけが売れ。
一番美味しいお店だけが儲かり。
一番良い音楽だけが残る。
0か1か。
コンピュータ的な判断ですね。
例えば有名な絵画「ひまわり」と「モナリザ」のどちらが良いか決まってしまい、どちらかしか残らない世界。
現実は、そうではありませんよね?
◎結論
さて、我々人間には共通認識が存在します。
「あそこのお店、おいしいよね」という話が当たり前のようにされるのも、この共通認識があるからです。
「きっと相手もそう思うだろう」という前提で、話ができる訳です。
これがある時点で、完全に千差万別な世界ではない事が言えます。
それはつまり、人間は根源的に何が良いかという絶対的な基準を持っている、という事です。
腐ったリンゴをみて、おいしそうと思う人は。
いない訳です。
(本当に千差万別なら、そういう人もいる事に…)
そして、人気のお店や、優れた作家というのもまた、存在し。
それだけではなく、そこそこ売れているが一番ではない、中間層というのもまた、存在するのです。
という事は。
人の良し悪しの判断とは。
「上手か下手か」と「好きか嫌いか」という、二つのベクトルの総合値によって導き出されている。
つまり、
上手:50 好き:50 で評価し、合計得点の高かったものを「良い」と判断する。
という事ではないでしょうか?